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掲載号:2020/09/01   特集記事, 市政だより記事

ふくおかの道 2020/09/01

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福岡市は、武士のまち「福岡」と町人のまち「博多」という隣り合わせの二つのまちが中心となり、それぞれの歴史を刻みながら発展してきました。

 

その歴史を、道という観点で紹介します。

 

 

福岡市赤煉瓦文化館のイラスト

 

 

福岡城下の道

筑前国(ちくぜんのくに)(現在の福岡県の一部)の領主・黒田長政は、慶長6(1601)年から7年の歳月をかけて福岡城を築きました。

 

古くからある博多の西側に、城下町福岡を誕生させたのです。

城下町の道路構想は、あくまでも福岡城の防衛が主眼に置かれた都市計画によるものでした。

そのため、道路も狭く、丁字路、かぎ型路、袋小路などが随所に設けられ、要所に門が築かれました。

 

敵の攻撃を受けた場合、攻めてきた敵が真っすぐ進めないように配慮されたもので、城下町の典型的な都市構造といえます。

 

徳川幕府が全国の大名に命じて作らせた城下図「正保福博惣図」の写真

 

 

街道整備から福岡市誕生まで

江戸時代には、全国的に街道の整備が進められます。

 

福岡城下には「唐津街道」と「日田街道」が通り、メインストリートという意味で「通筋(とおりすじ)」などと呼ばれ、「魚町辻(つじ)」(現・福岡市中央区平和台通交差点付近)が街道の起点とされました。

 

城下町の建設も進み、福岡六丁筋(簀子(すのこ)町、大工町、本町、呉服町、西名島町、東名島町)が形成され、唐津街道(豊前小倉~肥前唐津)の簀子町より西への道も整備されました。

 

当時の陸上の交通手段は、徒歩か駕籠(かご)か馬でした。

その後、明治維新によって、自由に往来できるようになるなど、これまでのさまざまな規制が解かれ、馬車や人力車が登場。

輸送手段も大型の荷馬車が出現するなど大きく変化していきました。

 

廃藩置県が実施された後、明治9(1876)年の区制変更により福岡・博多は合併して福岡区になります。

一つになっても、武士のまち・福岡と古くからある町人のまち・博多には、依然として門という隔たりがありました。

 

明治21年に区を二分していた「桝形門(ますがたもん)」が撤去され、福岡と博多の融和の始まりと時を同じくして、翌22年、福岡市が誕生しました。

 

福岡と博多を結んだ西中島橋と石垣で囲われた 桝形門の写真

 

 

市内電車開通が契機に

明治15(1882)年に西中島橋が架け替えられた後、同37年に、東中島橋・石堂橋も幅員8・2メートルの近代橋に変わり、市内の交通の便が格段に良くなりました。

 

同40年代には千代村~今川間(旧国道202号線)と博多駅~築港間の縦横の幹線2本が建設され、その後、泥川橋(現・天神橋)が完成し、中洲橋(現・西大橋)も再建されました。

 

この一大工事は、明治43年3月から2カ月間開催された産業博覧会「第13回九州沖縄八県連合共進会」に合わせて行われたもので、電車敷設も同時に急ピッチで進められました。

 

現在の天神中央公園から警固神社までの広い敷地で開催された第13回九州沖縄八県連合共進会の写真。会は、肥前堀と呼ばれた福岡城の外堀を埋め立てて行われた。

 

 

電車通りの主要部が構築され、交通動脈ができ、近代都市にふさわしい道路が整えられました。

 

 

共進会開催に伴い、来賓接待所として建設された旧福岡県公会堂貴賓館(天神中央公園内)の写真。

 

 

 

 

今につながる道

戦後、さまざまな復興事業が行われ、天神地区の街路整備も進みました。

 

横筋(東西)は、北から那の津通り、昭和通り、明治通り、国体道路が、縦筋(南北)には渡辺通りが貫きます。

 

終戦直後の復興期、昭和にできた代表的な道路の「昭和通り」、昭和23(1948)年の第3回国民体育大会に併せて整備された「国体道路」、博多電気軌道(西日本鉄道の前身の一つ)を設立した呉服商の渡辺与八郎の名に由来する「渡辺通り」の三つの愛称は、昭和44年の市制施行80周年記念事業による公募で決まりました。

 

道路の大部分が明治末期に整備され福博電気軌道・貫通線が走った「明治通り」は、市制100周年を迎えた平成元(1989)年に名付けられました。

 

昭和初期の天神町(てんじんのちょう)交差点。右下には西鉄福岡駅が映っている写真

 

 

 

 

 

萬町(よろずまち)の曲がり角

昭和通りや明治通りには、城下町の特徴である屈曲路の名残があります。

 

その典型的な例が「萬町の曲がり角」(天神西交差点・西鉄グランドホテル前)です。

 

現在は拡幅され、緩やかなカーブが残っているだけですが、以前の道路は、かぎ型に屈曲し東西が萬町で筋違いになっていました。

 

 

当時、この萬町交差点の角地に赤れんが造りのカトリック教会の聖堂がありました。

明治の末に、天神町から大名町まで真っすぐに市内電車の線路を敷く計画が立てられ、聖堂の移転を迫られた教会のべレール神父は、必死に教会の存続を訴えました。

 

結局、教会の土地は削らずに線路が敷かれ、電車は萬町の急カーブで難渋し、車輪とレールのきしむ音が響いていました。

時には脱線したりもしたのだとか。

 

町の人々は、ここを「べレールさんの曲がり角」と呼んでいたそうです。

 

 

萬町教会前(昭和50年)の写真。教会は久留米に移築現存。池田善朗氏撮影(福岡市博物館蔵)

 

 

博多の道と町割り

国際貿易都市として栄えた中世博多のメインストリートは、現在の聖福寺前から呉服町交差点付近を通る道筋だったと考えられています。

 

 

弘法大師が日本で最初に開山した密教寺院、南岳山 東長寺のイラスト

 

15世紀ごろの博多には家が1万戸ほどもあったようですが、道幅はまちまちで曲がっており、整然とした街区ではありませんでした。

その後、戦国時代の戦火で博多は荒廃しますが、16世紀末、豊臣秀吉が行った「太閤町割(たいこうまちわり)」によって復興します。

 

この町割りで、博多は平城・平安京のように道路が直交する整然とした町並みになりました。

博多の町割りの特徴には街区が長方形であること、南北の縦の通りが広く、東西の横の通りがやや狭くなっていることなどが挙げられます。

 

江戸時代初めの城下図には、現在の川端商店街の通りが約9メートル、国体道路に当たる道筋が約5・4メートルの道幅だったと書かれています。

 

博多では、道を挟んだ数十軒の家が集まって一つの町を形成し、同じ道筋に並ぶ十数カ町で「流(ながれ)」という町組をつくっていました。

これを、祭礼などを行うときのまとまりとしました。

 

江戸時代には東町、呉服町、西町、土居、須崎、魚町、石堂の七つの流がありました。

これは秀吉が、お坊さんが身に着ける「七条の袈裟(けさ)」になぞらえて、博多の主要な道を7本としたからだと伝えられています。

 

 

文化9(1812)年の博多近隣古図の石碑の写真。大同庵跡 古渓水(福岡市博多区奈良屋町)の敷地内にあり、町の境目や町名がわかる。

 

 

 

アスファルト舗装始まる

明治から大正にかけて、市内の道路状況は非常に悪かったようで、晴天時には土ぼこりが舞い、雨の日はぬかるみに悩まされていました。

 

大正10(1921)年末、市内で初めて川端地区内の道路90メートルがアスファルトで舗装され、翌年には西中洲までの320メートルが舗装されます。

以降、福博の中心街の道路は木れんが、アスファルト、石ブロックなどで次々に舗装され、近代的な町並みへと変貌を遂げました。

 

 

昭和初期のにぎわう東中洲の映画館街の写真

 

 

山笠はこんなに高かった

明治4(1871)年の山笠の高さは約15メートルで、現在の舁(か)き山笠の約3倍ほどありました。

 

華やかに装飾され、破産者が出るほど多額の費用を要したため、県は同5年に作り物を伴う祭りを禁止します。

それを待っていたかのように電信線が張られ始めました。

 

明治16年、山笠は費用を削減し、高さを約半分にして復活します。

 

同24年に各流の世話人たちが電信線を高くするよう陳情し、翌年からいったん高くなりますが、今度は同30年に電灯線が張られ始めると、いよいよ舁きにくくなり、翌年一気に2.7メートルに縮小。

さらに同43年、福博電気軌道の電車の架線が引かれ、ほとんど台のみになってしまいます。

 

結局、背の高い飾り山笠と勇壮な舁き山笠を別々に作ることで決着しました。

 

最古の山笠写真(明治3年)・福岡市博物館蔵

 

 

 

ストリートものがたり
「櫛田のぎなん」

櫛田神社の境内には、ご神木のイチョウの木が立っています。

 

樹齢は千年以上といわれ、高さ33メートル、胴回り16メートルの博多一の古木です。

 

昭和22(1947)年の道路拡幅計画で一時存続が危ぶまれました。

その後、県の天然記念物に指定され、住民と市との話し合いの結果、木の根元を保護するため、道幅を15メートルから13メートルに縮小することになりました。

 

国体道路から櫛田神社に向かう際、急に歩道が狭くなるのはそのためです。

 

国体道路から櫛田神社に向かう際の道路の写真。急に歩道が狭くなっている。

 

 

電灯・電話 始まりの場所
~東中洲~

東中洲(中洲一~五丁目)は、福岡の近代化がスタートした場所です。

 

発電所が建設され、明治30(1897)年11月1日、福岡に初めて電気の灯がともりました。

最初に電灯がともった麹(こうじ)屋町(現・下川端町)の岩田屋呉服店(岩田屋の前身)には大勢の見物人が押しかけ、人々は光の輝きに感嘆し、風が吹いても消えないことに驚いたそうです。

 

 

昭和初期東中洲の電車通り(現在の明治通り)の写真

 

 

 

明治31年、福岡電話交換局が東中洲に完成し、10月に加入者受け付けを開始しました。

 

東中洲の料亭や芸妓(げいぎ)が頻繁に使用したため、当時同局の夜間通話の多さは全国的にも有名だったようです。

近代化をけん引した東中洲の道路には当時、電信線と電灯線、電車の架線がひしめき合っていました。

 

明治40年ごろの電話交換手の女性たちの写真

 

 

 

 

まちを楽しむ道づくり
博多旧市街プロジェクト

 

 

まちを楽しむ道づくり 博多旧市街プロジェクトロゴイラスト

 

 

福岡市は、歴史や文化を感じられる旧市街の魅力をさらに高めようと「博多旧市街プロジェクト」を進めています。

 

博多部の歴史資源や名所などをストリート(道)でつなぎ、それぞれのストーリー(物語)と共に町並みを楽しんでもらおうという取り組みです。

 

 

博多祇園山笠の追い山笠の舞台としても知られる櫛田神社(福岡市博多区上川端町)から大博通りまでをつなぐ「櫛田表参道」と、聖福寺前などを通る「御供所通り」を2019年、趣のある石畳風に舗装しました。

 

これからも旧市街をより魅力ある町並みにするために、歴史・文化に配慮した道づくりを進めていきます。

 

 

櫛田表参道(幅約7メートル・全長約230メートル)博多町家ふるさと館前の写真

 

 

 

御供所通り(幅約7メートル・全長約600メートル)聖福寺前の写真

 

 

 

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FAX 092-733-5591

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